今週火曜日はセルポアという瀬田駅近くのオムライス屋さんで、
里親学生さん達(滋賀医大のメンター制度のメンティー)と夕食を食べました
水曜日の滋賀医大の講義前のこの時間は会食の定番時間になってきました
もちもとポテト団子の肉じゃが
しぐれ煮おむらいす
サムライロック
どれもこれも懐かしの定番メニューを飲み食べつつ、
新しく合う学生さん達とも語らうひと時になりました
セルポアは昔もっと小さいお店でアルプラの近くにあったのですが、学生時代の中ごろに移転して大きくなりました
その時と変わらない店構えで、厨房にはシェフのMさんの姿はなかったのですが、
それでも当時と同じお店でにぎわっていました
学生さん達との時間も非常に面白かったです
卒後9年ということは医学部1年生から見ると15年離れてるんですからね…
こっちは大学の後輩と言うことで親近感を持って話していますが、向こうから見ると遠いんでしょうね~(と気にしてもしょうがないので、気楽に話すようにしました)
里親制度は公式&マッチングのメンター制度なので基本上手くいきにくい制度です
自然なメンター・メンティーの関係にはもちろん及びません
なので肩ひじ張らず、まずは顔合わせをして、いろいろなきっかけ作りになればと思って接しました
最初は緊張していた学生さん達も色々お話してくれました
医師なった経緯や、最近の時間の過ごし方、大学のいろんな話、悩み事
どれもこれも勉強になるというか、違う世界を教えてもらえるというか、
貴重なことを教えてもらっているな~という時間になりました
こちらも自由に思ったこと、感じたことを話すようにしました
・鏡を見てのダンスの練習⇒自分を客観視すること
・へたくそでもダンスバトルに出ること(人に)みられることで上達すること⇒現場で学ぶことの大切さ
・好きな女優さんとその理由⇒演技、演じる中での個性
・思わぬ学外活動への参加と時間調整の大変さ⇒沢山の舞台を経験することの意味
・国境なき医師団への憧れ⇒災害医療・震災支援のときのロジスティック
などなど…
メンターとしてのキャリア的機能はまだまだの時間でしたが、
心理・社会機能としての「役割モデルの提示」や「受容と関心」は出来たかな
自分自身も学生時代や今を医学部の1-2年生に語り直すことで、
色々自己認識を深める機会になりました
これからどんな学生生活を送り、どんな成長や挫折を経験するのかはわかりませんが、
遠くで(時々近くで)見守って行きたい学生さん達でした
次回は縁ある高学年の人たちを誘って、何らかのケミストリーが起きたらと目論んでいます
場所はセルポアがいいな~やっぱり
2013年10月10日木曜日
2013年10月6日日曜日
施設での看取りの進化と出会う
昨年4月から密に関わっている施設では、
組織文化、看取り数の増加、そしてスタッフの思考錯誤などなどを背景に、
今年は看取りのケアが進化しています。
なんというか思いや気持ちがケアにつながっている感じ。
思いや気持ちはともすれば、いろいろな障害で形にならなかったり、ひとりで空回りしたり・・・
それが、目に見えてケアになっています。
看取りの時に主に使われる部屋があるのですが、それが毎回その人の家の個室になる感じ。
すごいな~と思って最近見ています。
というのも、回診時に自分のその部屋からもらう温もりで、パフォーマンスが変わるからです。
過去を知る展示があり、その人に接する際の敬意が湧いて来たり、
家族の写真から、大切な家族の一人だと再確認したり、
○○が好きだったんですね、○○が上手だったんですねと声をかけたり・・・
部屋自体が、良き看とりのアフォーダンスを生んでいるんです・・・
家庭医療のケアは「標準的な医療の個別化」という、矛盾にも聞こえる、ケアをすることだと思っています。
その施設でも、標準的な看取りのケアを究極に個別化していると感じました。
在宅ではその方の長年の住まい=その方らしい空間で看取るのですが、
看取りの時には、その施設の標準的な(老舗なので昔の)病室みたいな施設の部屋が、その方らしさに満ちた空間に設えられているのです。
その過程を想像し、その空間でのケアのやりとりを考えただけでも・・・。
その人の人生、生きてきた道のり、その人を見送る家族の思い、
それぞれに配慮し、斟酌し、出たり引いたり、工夫したり、でも反省して修正したり、
その揺れるケアの中で、豊かな時間が編まれ育まれている感じがしました。
在宅医療も行っていますが、亡くなる場所にベストはないと思っています。
在宅でも病院でも施設でも良いと思っています。
この施設には亡くなる場所のベストとなるエッセンスがあると思いました。
施設看とりが確実に増える時代に、この施設でのケアは一つの希望かもしれません。
間違いなく、人が人を支えることがより大切になる時代に、この施設で育つ人材がこれからの看取りを支える大切な一人ひとりになると感じました。
凄く勉強になる温かさを看取りの部屋から感じます。
燃え尽きず、継続できる温度で、この温かさが続いて欲しいです・・・。
組織文化、看取り数の増加、そしてスタッフの思考錯誤などなどを背景に、
今年は看取りのケアが進化しています。
なんというか思いや気持ちがケアにつながっている感じ。
思いや気持ちはともすれば、いろいろな障害で形にならなかったり、ひとりで空回りしたり・・・
それが、目に見えてケアになっています。
看取りの時に主に使われる部屋があるのですが、それが毎回その人の家の個室になる感じ。
すごいな~と思って最近見ています。
というのも、回診時に自分のその部屋からもらう温もりで、パフォーマンスが変わるからです。
過去を知る展示があり、その人に接する際の敬意が湧いて来たり、
家族の写真から、大切な家族の一人だと再確認したり、
○○が好きだったんですね、○○が上手だったんですねと声をかけたり・・・
部屋自体が、良き看とりのアフォーダンスを生んでいるんです・・・
家庭医療のケアは「標準的な医療の個別化」という、矛盾にも聞こえる、ケアをすることだと思っています。
その施設でも、標準的な看取りのケアを究極に個別化していると感じました。
在宅ではその方の長年の住まい=その方らしい空間で看取るのですが、
看取りの時には、その施設の標準的な(老舗なので昔の)病室みたいな施設の部屋が、その方らしさに満ちた空間に設えられているのです。
その過程を想像し、その空間でのケアのやりとりを考えただけでも・・・。
その人の人生、生きてきた道のり、その人を見送る家族の思い、
それぞれに配慮し、斟酌し、出たり引いたり、工夫したり、でも反省して修正したり、
その揺れるケアの中で、豊かな時間が編まれ育まれている感じがしました。
在宅医療も行っていますが、亡くなる場所にベストはないと思っています。
在宅でも病院でも施設でも良いと思っています。
この施設には亡くなる場所のベストとなるエッセンスがあると思いました。
施設看とりが確実に増える時代に、この施設でのケアは一つの希望かもしれません。
間違いなく、人が人を支えることがより大切になる時代に、この施設で育つ人材がこれからの看取りを支える大切な一人ひとりになると感じました。
凄く勉強になる温かさを看取りの部屋から感じます。
燃え尽きず、継続できる温度で、この温かさが続いて欲しいです・・・。
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